苦しみが目に見えない、ということは当たり前のことすぎて見過ごされている気がします。
前回の続きです。
今日も「ココロと苦しさとの付き合い方」をつらつらと。
さて、苦しみ、に限らず、「こころのなか」は基本的に見えません。
コミュニケーションの大切さがよく語られますが、
なぜ大切なのかといえばそもそも「こころは見えない」からです。
「え、見えるじゃん、わかるじゃん?」と思っている方もいるでしょう。
たとえば。
あなたは駅のホームにいます。
むこうに電車を待っている人が立っています。
この人をみて、この人が何を思って、考えて、感じているのかはわかりますか?
わからないですね。そう、わからないんです。
私たちが、考えていること、思っていること、感じていること、伝えたいこと、というのは基本的に全くみえません。表情や身振り手振り、語られている言葉や口調や声の大きさなど、相手の身体的な状態をみてこちらが推測しているだけです。
いいかえればコミュニケーションは心や考えを「みえる化」して交換し合う、ということです。「みえる化」したサインを送り、受け手はそのサインの意味を推測するわけです。
ちなみに私は、視覚的なサインに限らず「五感」でキャッチできるサインに変えることを「みえる化」と言っています。
視線、身体の姿勢、文章、絵、図や動画などは視覚的表現ですが、おしゃべり、音楽などは聴覚的サイン、ハグや腕を組むといった「触覚」によるサインもありますよね。
感動的な絵、映画、音楽などの芸術がこの世の中に存在するのも「みえないこころ」を「みえる化」しているからだと思うと、すごいなあとつくづく思います。
そして「苦しみ」に話を戻すと、「苦しみ」は「こころのなか」で「みえる化」が難しい部分なのではないかと思うのです。
だから「サイン」を送りにくいし、サインをキャッチしにくい。その結果、コミュニケーションするのが難しくなってしまう。
「なんだかパッとしない」「苦しいけど言えない」おそらく、みなさんもそんな経験を1つや2つお持ちかと思います。
逆に身近な人が苦しんでいたことを知ったあとで
「言ってくれればよかったのになあ」と思うこともありますね。
それは「苦しみ」という「こころのなか」のこういう特性があるからです。
ではどうして「苦しみ」の「みえる化」が難しいのか、それはまた次の機会に書こうと思います。
今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしくお過ごしください。