「私」という夢の終わり

微細にまとわりつく、自分への思い

手が使えない、というのはなかなかしんどいものでした。


セッションでも、メモが取れない。
EFTのタッピングもできない。
キーボードも打てないしスマホも使えない。
洋服ダンスの引き出しも開けられない。
洗濯物を干すのにも洗濯バサミがつまめない。
自転車のブレーキがかけられない。
食べ物のふたを開けられない。

何でもすぐこぼす、何でもすぐ落とす毎日。
あらゆることに、
これまでの2倍ぐらいの時間がかかるように。
泣きっ面に蜂とはこのこと。

このカラダは、私の思うように全くうごいてくれない。

OADセラピストとして
非二元の「目覚め」を求めるものとして
カラダを含め
自分をコントロールするものはいない、ということは
もちろん承知していましたが
これだけ立て続けにいろいろおこると
私の「エゴ」はもう大騒ぎでした。

中でも、私の中で1番ダメージが大きかったのは
箸が持てないことでした。
左手にお茶碗を、右手にフォークを持ち
ご飯を食べている。
たったそれだけなのに、
なんとも惨めな気持ちになったのです。

私は箸を使うのが下手で、
子供の頃よく「不器用」といわれていました。
思い出すこともなかったこの記憶と
子供の頃の悲しみがふっとよぎった時は、
日常のささやかな行為にこんなにも思いや
感情が伴っていたことに改めて驚きました。

私にまつわる”思い”は微細に宿り、
そして大量に存在するらしいこと、
普段はそれに無自覚なことを思い知ります。

そして、もうほとほと嫌になり果てた時、
ふとあるワーク思い出したのです。

「だったら、とりあえずシンデみる」。

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