すばらしく感動するような出来事に遭遇した時
「感動をありがとう….」といっているのを耳にすることがある。
この言葉をきくたび、私のなかでは
「ありがとう」と言った人に対して、
相手が「感動」をあげた、ということになっている。
いただきもののお礼に
「結構なお品をありがとうございました」ということがある。
「感動をありがとう」は
「結構なお品」の部分が「感動」になってるわけだ。
だから、私の頭の中では
相手からその人に「感動」というプレゼントが手渡されている感じがする。
手渡し、プレゼント、といえば、
「勇気を”もらった”」という言い方もあるね。
勇敢な行動をした人がいた、として
その人の「勇気」が、じぶんに「与えられた」ってことだよね。
でも、ほんとうにそうなのかな?。
「感動」や「勇気」は、「結構なお品」のように
「あげたり」「もらったり」するものなんだろうか。
なんか、ヘンな気がする。
相手のすばらしい行動や佇まいがエネルギーとして伝わってくる。
「もらう」のは、そのエネルギーなんじゃないだろうか。
そして、そのエネルギーが
心を震わせれば「感動」を感じ、
立ち上がる力を目覚めさせれば「勇気」を感じる。
あなたが「勇気」や「感動」を感じているのは
相手から、勇気や感動を「もらった」からじゃない。
相手の行動や在り方によって、
あなたの内側の感動が目を覚まし
あなたのなかにあった、勇気が湧いてくるからだ。
あるんだよ、もともと、自分の中に。
感動の種も、今感じているような勇気も。
深く、大きなエネルギーとして、
いつもいつもちゃんと持っている。
どうか、そのことを忘れないでほしいな。
それは、自分の気づいていなかった
果てしなさを信じるということにつながる。
自分自身を信じることにつながる。
そして、未来を切り開いていく力となっていくのだから。
今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしく お過ごしください。