言葉が生まれるって、存在を認めてもらえることだ。
いいことだなと思う。
「クリぼっち」という言葉をはじめてきいたとき、
「クリスマスに一人きりでいる」ということが、
多くの人に認められたような気がして、少し暖かい気持ちになった。
若い時は、クリスマスに一人でいるのが好きじゃなかった。
デートしている恋人同士も、仲良しそうな友達同士も
クリスマスの買い物をしている家族づれも、
クリスマスのイルミネーションに照らされて、輝いて見えた。
そんな光景をみると
自分のなかから言いようもない
寂しいような、虚しいような、不安なような、ちっぽけなような、
そんな感じが湧いていた。
けれど私は知っていた。
それは「クリぼっち」のときに湧いてくるけど
いつも音もなく自分と共に存在していることを。
ある時、
静かに椅子に腰掛けて
その感覚に、その寂しさに、虚しさに、不安に、
一緒にいてあげてみた。
胸の中にある、
吸い込まれそうなくらいに深い青色の空間。
その心の空間は、あまりにも空っぽで、
深い青色で、
もう形容しがたいくらい、切ない。
そして、いつもずっと、共にあった馴染み深い感覚。
しばらく、その「深い青い空間」と共にいて
ふと気づいた。
この感覚を持っている自分自身や
「ぼっち」になっている自分自身を
うっすらと否定していたことに。
ああ、もうそんなことする必要はないなあ。
「ぼっち」でも
「青色の空間を抱えたまま」でいても
いいじゃないか。
許しがおきて
すぅーっと、おだやかな気持ちになった。
ちょっと泣けた。
キラキラのクリスマスがほしかったのは
この「深い青い空間」が
疎ましかったからだと気づいたあと
キラキラのクリスマスを送っている人たちを
やさしく見守ることができるように
なった気がする。
もしいま、これを読んでいるあなたが
「ぼっち」を送っているのだったら
今すぐ、この画面を閉じよう。
スマホやパソコンやテレビなどを全部消してみよう。
ただ、「ぼっち」でいてごらん。
自分のなかにある「ぼっち」の声をきいてごらん。
その時間こそが、
今年のあなたのクリスマスプレゼントになるよ、きっと。
今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしく お過ごしください。