「半分、青い」。いつまでも。

このごろ、連続テレビ小説の「半分、青い」にはまっています。

子供の時におたふく風邪で片耳が聞こえなくなった
主人公鈴愛(すずめ)の半生。
高校卒業後、マンガ家をめざし上京しデビューしたものの、挫折。
30代になり、結婚し、長女誕生、
そして夫に離婚を切り出される….が本日までのお話です。

このタイトルは、
片耳を失聴した直後、
傘に当たる雨音が片側しか聞こえなかった鈴愛に対し、
母親が
「鈴愛の半分はいつも青空だ」
といったことに端を発しています。

「面白いタイトルだな」と思いながら見続けること3ヶ月。
ドラマが半分を過ぎたところでなんとなく思ったのは….

ドラマ全体が、どこかしら「半分、青い」。

◼️若さの象徴 〜 「青い」

ここで私が「青い」といっているのは、
「若さ」という意味での「青い」です。

若さが象徴する
「勢い」「伸びやかさ」「しなやか」「純粋さ」
「もろさ」「あやうさ」「素直さ」「未来を信じる力」など…

「青」はそんなことを連想させてくれます。

6月末までの前半は
主人公の鈴愛は10〜20代。
若者の青さが描かれていました。
ドラマ前”半”が「青い」。

7月からの後半、
「青さ」を担うのは、ふたりの「だめんず」になります。
映画監督を夢見る(どころか見続けている)鈴愛の夫、
映画界を勝ち抜いていく「腹黒さ」をイマイチ抱えきれない
夫の師匠です。

彼らは年齢的には「おとな」ですが、心のなかは「青年」。
そういう意味で「半分、青い」人たちです。

一方、主役の鈴愛は30代で、彼女の青さは表立っていません。
ドラマ前半には鈴愛の父親の手作りの本箱、
ルームスタンドの傘、部屋のドア…など
シーンの随所に「青」が見受けられましたが、
今はセットの中にも「青」が減っているような気もします。

◼️「青さ」をわきにおいている人には、目障りなドラマ。

鈴愛に限らず
結婚、出産、社会での重責etc を機に
自分の「青さ」を
一旦わきにおいていた人はそれなりにいるでしょう。

振り返ると、私自身も30代の頃は「成熟したおとな」として、
自分のなかに残っている「青さ」を
気づかないうちに心の奥深くにしまいこんでいました。

でも、なくなったわけじゃない。
ものすごい力でフタをしている。
我慢している。
けれど我慢している自覚がない。

だから、
このドラマの登場人物のような
自分の望みに正直で、自由で伸びやかな「青さ」を目の前にすると
本気でムカついたり、噛みついたりしていました。

いつまでも、子供みたいに夢見やがって
なにワガママ言ってるの?
何が自分らしさだ、バカじゃないの?

などなどなど…。

30代の頃の私のように
自分の「青さ」を脇に置いてしまった人にとっては
このドラマは本当に目障りかもしれません。
当時の私だったら、相当ディスってると思いますもん(笑)。

◼️いくつになっても「青い」私が。

「年寄りの冷や水」という諺があります。
年を取っても、若者気分で、冷たい水を浴びてしまう。

おそらく誰もが「半分、青い」ままでいることしかできないことを
人は昔から知っている。
それを受け止めるか、肯定するかどうかは別にして。

年を取っていくと、
肉体を使って心の中の「青さ」を表現することは難しくなります。
いわゆる「気持ちはあっても、カラダが追いつかない」というやつです。

けれど、それを嘆く必要はない。
また、表現できないからといって
「青さ」をないことにする必要もない。
ただ、自分の一部として「青さ」を存在させてあげるだけで十分。

そして肉体を使って
心の中の「青さ」を表現できなくなってくるからこそ
「青さ」に気づくこともできる。
それは朽ちゆく身体からのギフトでもあります。

「半分、青い」は、自分のなかの「青」に気づかせてくれる。
そんなところが、このドラマの魅力なのかな、と思いながら、
また明日を楽しみにしてます♪。

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