「盲信」を卒業するには「ダメな自分に愛と赦し」。

前回のブログで「盲信する」ということを書きました。
今回は、逆の立場、「盲信される」ということについても、こころのしくみから書いてみます。

「盲信する」人がいれば、「盲信される側」の人が存在します。
当たり前ですね。
薄ぼんやりと感じている欠落感や劣等感を埋めてくれる「誰か」「何か」です。

誰かを「盲信」すると
その対象と「依存的」な関係になります。
その人なしでは心はグラグラになって不安定。
「盲信」ということばのとおり、何もかも信じてしまう。
その人の判断基準に従うということです。
多少「あれれ?」と思うことはもちろんあるかもしれませんが、
「安定」を得るために、
その人に自分の人生の基盤や主導権を明け渡してしまうことも多いかと思います。
 
当時はよく「マインドコントロール」という言葉が使われましたが
個人的にはちょっと違うような気がしています。
「マインド」というのは、思考とか精神を指します。
見かけの状態としては
「マインドがコントロールされている」ことではありますが
むしろ表面的な「マインド」を生み出している
その下にある欠落感や傷ついた感覚を
ごっそり埋めてもらっているような感じです。

◼️盲信される人も、埋めてもらうことを望んでいる

さて、「盲信される側」の人。
この人も、人ですから、やっぱり欠落感や劣等感を持っています。
ですから、
この人も「欠落感」や「劣等感」を感じないように生きることを望みます。

「盲信する人」と同じように、
欠落感や劣等感を埋めるもの、
この足りない感じを感じないようにするための「フタ」が欲しくなります。
 
前回のブログを読んだ方は、そろそろお気づきになるかもしれません。
 
そう「盲信する人」が、「盲信される人」の欠落感や劣等感を
埋める存在になっていることがあるのです。
(もちろん「盲信される人」のなかにそうではない人もいることでしょう)

自分はダメな存在だから
まわりから低くみられてしまう
受け入れてもらえない
心にある劣等感、低くみられることへの怒り、
受け入れてもらえない寂しさ….

盲信してもらえれば、
受け入れてもらっている感が生まれる。
低く…どころか高くみてもらえる。

◼️盲信してくれる人を手放したくない

そうしたら盲信する人たちを手放したくなくなることでしょう。
そのために、様々な努力をするかもしれませんね。
これが「コントロール」です。

相手をコントロールしなければならないくらい
本当は「怖れ」に突き動かされているのです。
これがいわゆる「独裁」の状態です。

盲信される人も、盲信する人たちに深いところで
とても依存しあっているのですね。

盲信される側の人は
盲信をやめて去っていこうとする人に対して
攻撃的になっていくかもしれません。
自分が無意識に隠そうとしている
大きな欠落感、劣等感、不安感などがあらわれてきてしまうのだから。
いわゆる「裏切り者」呼ばわりです。

また自分を盲信してくる人たちの集団を守るために
外の世界に攻撃的になることもあるかもしれません。

ここには暖かなやさしさに満ちた関係性は存在しません。
あえて陳腐な言い方をすれば
 
「愛と赦しのない関係」になります。

◼️ダメな自分に共感を

推測の域を出ませんが、松本智津夫、という人は
自分の中にある深い、深い欠落感、孤独感、無力感を埋めるだけで
精一杯だったのではないかと思います。

自覚的にか、そうでないかはわからないけれど
そうした苦しい感覚から目を背けた「ありたい自分の姿」が
「麻原彰晃」(ユング風にいえばペルソナ)になっている。

そして
「麻原彰晃」という姿だけを肯定し、しがみつづけていた
ナルシストだったのかとも思います。
深いところでは、
「ありのままの自分」が大嫌いで、深い孤独にあったのだろうと。
  
私たちが覚えておいた方がいいことは
「盲信する」ことも「盲信される」ことも
全く他人事ではない、ということです。
もし、あなたがいま、そういう人生を歩んでいないのだとしたら
ほんとうに様々な奇跡が積み重なって、そういう状況にある、ということです。

ですから、前回の繰り返しになりますが
もし、こうした悲劇を繰り返さないと切実に願うのであれば
やはり「自分を肯定する」「自分を愛する」力を育んでいくことです。
 
「いいところ」だけではなくて
弱いところ、ダメなところも含めて「まるっと」
肯定し、愛していく。
 
言い換えれば、まるっと赦していく。
  
すごく難しいことなのかもしれません。
でも、とってもシンプルなことのような気がします。

あえて乱暴に言えば

「あなたもダメ、私もダメ、みんなダメ。でも、それでいい。」

をあえて言わなくてもいいような
そんな心持ちでいられる世界になればいいなあと願うのです。

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