一連の「オウム」事件の死刑囚に対して
死刑が執り行われました。
地下鉄サリン事件の第一報を
テレビのニュースで見たときのことは今でも覚えています。
夫は事件のあった路線を使って通勤しており
その日はたまたま、遅い時間に出社となっていて
家にいました。
そのあと出社しましたが
「(事件のあった)霞ヶ関駅は電車が素通りした」と
あとで教えてくれて、
改めて事件の大きさ、恐ろしさ、身近さを感じました。
◼️一流大学なのに、なぜ?
当時よく耳にしたのが
こちらの記事にもあるように
オウム真理教は、高学歴の若者の心を捉えていた
ということでした。
<オウム死刑執行>病理は消えたのか 元社会部長・小川一
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180706-00000064-mai-soci
記事にはこうあります
一流大学の理系学生が超能力や空中浮揚を信じ込んだ現実に、当時の東京大学長も「なぜだ」と悲憤慷慨(こうがい)した
学長さんの悲しみ。
もしかしたら
彼らの持っていた心深くにある
「欠落感」について
気づいていなかったのかもしれません。
たとえどんな高学歴であろうとも
わたしたちの行動をつくるのは
知識だけではなく心だということを。
日頃は表立って意識していないような
ぼんやりとした
「欠落感」「自己否定感」「不安感」etc….
一流大学の学生という学歴でも
それまで学び身につけてきた知識も
そんな感覚を埋めることはできなかったのかもしれない
と私は思います。
◼️「盲信する」とき、自分を低く見積もっている。
私たちは誰もが
「自分はどこかダメだ」
「自分はどこか人より劣っている」という
欠落感や劣等感を持っています。
もちろん、健康的な状態であれば
日常生活のなかでは
表立ってでてくることは、あまりありません。
またでてくるとしても
「なんかうまくいかないな」とか
「このままだと、どうなっちゃうんだろう」
という漠然とした感覚でしょう。
なんらかのきっかけで
その欠落感や劣等感を感じないようにしてくれる
「なにか」「だれか」に出会えば
その心地よさに、心奪われることでしょう。
それを「盲信」というのかもしれません。
でも「盲信」していても
欠落感や劣等感が消えているわけではないのです。
心の深くでは
「ダメな私」「劣った私」という思いを
信じきっているのだから。
◼️悲劇を繰り返さないために、自己愛を育む。
もし「こころ」という視点から
「悲劇をくりかえさないために」と語るとしたら
これから人生を歩む人々には
どんなかたちでもいいので
自己愛を育んでほしいと思います。
学歴も、知識も
もちろん人生に豊かさを与えてくれることでしょう。
けれど、
なによりも自分を肯定すること、
そして自己愛が人生に与えてくれる彩りは
なによりも、あたたかい。
自分を肯定できれば、他人も肯定できるようになる。
他者との違いを受け容れながら、つながることができる。
そうしたら、
誰かや何かに全てを委ねて
欠落感を埋めてもらわなくてもいい生き方ができる。
誰かを、何かを盲信しなくてもいい。
そして、
他者を否定したり、壊したりしなくても
自分を肯定したままでいられるでしょう。
あたたかく、やさしいつながりと、
そんな生命力から生み出される世界。
一流大学に行く….
そこには自ずから伴っていた「競争」が
自分の劣等感や欠落感を刺激されるようなこともあったことでしょう。
くだんの宗教に魅せられた人たちが望んだのは
欠落感のない世界で生きる
心地よさだったのかもしれません。
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