葬るということ
今ふりかえると、数々の「思い」たちを闇の中に還したのは
「私の思い」を葬り去る作業だったのだとわかります。
自分の身体を葬り、
ありとあらゆる自分にまつわる思考を葬り、
そこで「私」が(精神的に)死んでしまった、のでした。
「私の物語」は、もう葬り去るよりほかに、
行き場がなかったのでしょう。
「私の物語」のおわりです。
私の師である溝口あゆかさんは
「人生をコントロールする私はいなくなった」と語っています。
そのブログを読んだ頃、
私はちょうど自分自身にも小さな目覚めがあったので
「そうそう」と附に落ちた感覚があったのです。
が、今回の体験でより「気づきの意識」への理解が進んだ気がします。
じゃあこれを書いている「私」って誰なのよ?
と尋ねられそうですが、
乱暴にいえばこれを書いてるのは
「気づきの意識」が「淳子」に書かせてるようなものです。
というのも変だなあ…
ただ言葉が浮かび、指が動き、キーボードをたたき、
こんな文章ができあがっている…みたいな感じ。
「人生は運転手のいない車にのっているようなもの」という話を
いつだったか聞いた記憶があります。
運転手はいない。
ただ車は進んでいく。
車は私ではない。
ただ、車は走り、外の景色は変わり、
それに伴うリアクションも含め、
さまざまな経験が車におきる。
ただこの車を運転しているのは「私」ではない。
「私」が私の車(=身体)や、
私の旅路(=人生)をコントロールしているのではない。
私の「身体」はまだ動いているので、
この身体を介した経験はこれからも続くでしょう。
それに伴い、無数の感情や思いも湧いてくるだろうし、
無数の行動がおきることかと思います。
けど、それはただおきているだけ。
ただ、おきていることと、ともにあれば、それで十分。
今は、そんなところです。
【追記 その1】
ちなみに「悩み」はどうなったのかというと、何をどう悩んでいたのかも思い出せないくらい。
まったく、どれだけ状況(他者だけでなく自分自身も含めて)をコントロールしようとしていたんだか(笑)。
「悩んでいる理由」「悩んでいる私」は消滅しちゃったのでね。ふふふふふ。
【追記 その2】
“気づきの意識”が透明な感じ、はこちらの溝口あゆかさんのサイトの印象が強かったのかと思います。ご本人からも直接お話を伺っていたので、なおさら。それが「先入観」という「思考」になっていたのですね。
今はねえ…”透明な感じ”ってより…へへへ、黙っておこう♪
(2020.9月)